現在のコマツの礎となる事業をはじめた竹内明太郎は、激動の幕末期――「桜田門外の変」が起きた1860年、実業家・政治家の竹内綱(*1)の長男として高知県に生を受けた。
26歳になると、父・綱が手に入れたいくつかの炭鉱の経営を任され、その才能を開花させていく。明太郎は鉱山経営を貪欲に学び、ときにはイギリス人技師を招き、同国の最新式鉱山機械を輸入し、設備を一新。
その後、父とともに株式会社(*2)を創立し、複数の炭鉱経営に乗り出す。
1900年、パリ万博を訪れた明太郎は、当時最先端の機械技術に触れ、衝撃を受ける。その後、彼は1年かけて、最新のヨーロッパ諸国の銅山業、機械工業、造船業の実情を視察し、日本工業の幼稚さを痛感。
「工業を発展させずして、国家の発展はない」――彼は日本の工業育成に邁進していく。
1908年、炭鉱用機械製造の工場(*3)を設立。1916年にはさまざまな大型機械(*4)を相次いで開発し、日本の工作機械製造における先駆的な役割を果たした。1917年、石川県小松市近郊(*5)で、鉱山用機械の製作を目指す小松鉄工所を設立。明太郎は、まず技術者を欧米に派遣し、知識を吸収させる。この調査をもとに、「ガソリンを使用する本格的な国産自動車」を日本で初めて開発、製造した橋本増治郎(*6)を初代所長に任命する。橋本は、自身の経営する快進社(*7)との兼業だった。ちなみに彼が手掛けた車「ダットサン」の名称、"DAT"の"T"は開発出資者の一人「竹内明太郎」の頭文字(*8)である。
小松鉄工所の設立と同時に、明太郎は機械工業を発展させるには、鉄鋼の品質向上が欠かせないと考えた。国産機械の最大の課題は素材の鉄鋼にあるとにらんでいたからである。この特殊鋼鋼材を国産化したいと願って発足したのが、小松電気製鋼所(*9)である。ここでは、もっぱら品質の高い素材を開発することが求められ、まさに研究所としての機能を果たした。
当時の小松鉄工所は、自社の鉱山用機械を研究開発している段階で、自信の持てる確実な製品ができるまでは外部への販売を行わなかった。生産は、技術レベルと開発レベルをともに向上させることに主眼が置かれていたためだ。
そして、創業から3年後の1920年、「良品に国境なし」のコンセプトで、最高レベルの機械工業技術に挑む企業として踏み出すことになる。そして、翌1921年5月13日、小松鉄工所は、株式会社小松製作所として生まれ変わることとなった。
株式会社となった1921年は、前年の株価暴落をきっかけとした大不況の影響で、設立して間もない小松製作所の機械部門は苦境に立たされていた。一方、関東大震災後の復興需要や、全国の電鉄の新設、国鉄(*10)の電化、トラックの普及により活況を呈していた鋳鋼部門が何とかこれを下支えしていたのである。
しかし、物価は下落し、とうとう経営は手詰まり状態となる。明太郎は苦境を切り抜けるために、財界に幅広い人脈を持つ中村税(*11)を迎え、経営再建を目指すこととなった。中村は専務就任10年後の1934年に社長に就任。太平洋戦争後まで経営に力を尽くした。
太平洋戦争前から戦争中にかけては、陸軍や海軍の要請を受けて、ブルドーザー開発にも取り組んだ。当初は、G25、G40トラクターを土台に、さまざまなけん引車両と土工用車両(ブルドーザー)の研究・製作を続けた。そして、1943年1月、G40トラクターを基に、油圧式土工装置を別に設計製作して装着したG40ブルドーザーが誕生する。これが、日本製ブルドーザーの元祖である。その後も研究開発は続き、戦後のD50ブルドーザーの原型につながるものも生み出された。
数々の開発を成し遂げていた1945年の8月15日、日本は終戦を迎える。それはコマツからKomatsuへ、本格的なグローバル化への幕開けでもあった。(次号に続く)
G25型ガソリントラクター
国産ブルドーザーの元祖
「小松1型均土機」
*1) 武士(土佐藩士)・実業家・政治家。長男が明太郎、五男は吉田茂
*2) 竹内鉱業株式会社
*3) 唐津鐵工所
*4) 大型旋盤、プラノミラー、ロール研削盤など
*5) 遊泉寺銅山
*6) 技術者・事業家
*7) 日産自動車、いすゞ自動車の起源ともなった企業
*8) Dは「田健治郎」、Aは「青山祿郎(アンリツ創業者)」
*9) 電気炉製鋼の草分け的存在
*10) 日本国有鉄道:現・JRグループ
*11) 小松製作所に来るまでは、日本郵船ロンドン支店長を経て、猪苗代水力電気の創業に参画。後に東京電灯(東京電力の前身)の役員を歴任