コマツの起源を紹介する、"Komatsu message Vol.1"では、戦前、どのようにしてコマツが誕生したのかをお伝えしました。
今号"Vol.2"では、終戦を迎え、存続さえ危ぶまれたコマツがいかにして世界のKomatsuとなりえたのかをご紹介させていただきます。
Ⓐ対策にあたるすべての書類には、Ⓐの印が捺され、最優先かつ迅速に処理されていった。社員に対するQC教育は徹底して行われ、対策の具体的な目標も設定された(*9)。その時、社長の河合の司令はⒶ対策のためには「コストを無視しろ」「JIS(*10)を無視しろ」であり、後者は「JISに甘んずること無くそれより高い品質を目指せ」という強い意味が込められたものであった。試作車を使ってフル稼働で行った耐久テストから得たデータを重ね、1963 年3月、Ⓐ対策の量産試作車が完成、9月には「スーパー車」として発売された。
コマツはわずか2年間で、アメリカ製ブルドーザーと互角に戦える品質を生み出す技術を獲得したのである。
その後、米国カミンズ社(*11)のエンジンを、コマツのブルドーザーに搭載するプロジェクトが進行、1964年7月、量産体制に入り、スーパーC車と名付けて市場に送り出される。同社との二人三脚は今も続いている。
また、同時期、建設機械の次代の主力製品の開発に本格的に着手。油圧ショベル、ホイールローダーなどでは、複数の海外企業との技術提携を重ね、1984年にコマツ独自のラインナップ(*12)を市場導入した。
1960年代に入ると、事業伸張に応じた広い本社ビル建設の構想が浮上。
1966年2月、今後の発展が見込まれていた東京都港区赤坂に、新本社となる小松ビルディングが竣工、翌月本社として業務をスタート。
屋上には、グループ総合発展のシンボルとしてD60スーパーCブルドーザーの巨大模型を設置。
この模型は、1991年まで、交通の目印としても親しまれた。
(写真:竣工したコマツビルディング)
1976年からはより高いレベルでの品質保証を実現すべく「オールコマツTQC活動」を開始。1980年代初めには、油圧ショベル、ホイールローダーにおいて合弁や技術提携していた欧米の企業との関係を打ち切り、独自開発にも着手。1981年、米国で開催された「CONEXPO'81」(*15)での出品ラインナップは世界から集まった建設機械関係者の注目を集めるものとなった。
その後、コマツは国際情勢に対応する企業として舵を取り、グローバル市場におけるリーディングカンパニーの道を進んでいくことになる。
CONEXPO'81に出品したPC1500