Komatsu message 100th special Vol.2

コマツの起源を紹介する、"Komatsu message Vol.1"では、戦前、どのようにしてコマツが誕生したのかをお伝えしました。

今号"Vol.2"では、終戦を迎え、存続さえ危ぶまれたコマツがいかにして世界のKomatsuとなりえたのかをご紹介させていただきます。

度重なる危機や脅威がコマツを強靭に

戦後の食糧不足が苦境を脱する突破口に

 終戦時、コマツの経営は危機的な状況にあった。そんな折、国内の食料不足が深刻化。政府は大規模な新規農地の開墾に必要な大量の開墾用トラクターの製作をコマツに内示。1945年12月、コマツはこれに応じ、6,000台のトラクターの製作を開始した。しかし、1947年農林省(当時)からの突然の発注取り消し(*1)がコマツに致命的なダメージを与えた。経営立て直しが必至となった同年12月、労働争議を早期解決した河合良成(*2)が社長に就任。戦後の風を巧みに読んだ再建が進んでいく。
G40農耕トラクターで再操業
河合良成

国内トップの機械メーカーへ

 1954年からは、高度経済成長による好景気(*3)で、ブルドーザーを中心とする主力製品の生産が急伸し、機械の大型化に取り組んだ(*4) 。全国的な土木領域での開発ラッシュが追い風となり、ブルドーザーの生産台数は1955年からの5年間で約9倍に(*5)。 同時に、プレス産業車両や産業車両部門も成長。戦後の混乱と激動を乗り越えたコマツは、こうして国内首位のメーカーに上りつめた。しかし、時を待たず、黒船旋風が吹き荒れることになる。

キャタピラー社、日本進出の衝撃

 1961年春、全世界のブルドーザー市場のシェア50%を占めるガリバー的存在であったキャタピラー社(*6)の日本進出のニュースが報じられ、1962年には、同社は日本国内に新三菱重工業(*7)と合弁でブルドーザー製造工場をつくることを正式に発表。コマツはまさに存亡をかけて立ち上がらねばならなかった。

日本産業史に残る品質向上プロジェクト「Ⓐ対策」

 キャタピラー社の日本進出の報があって間もない1961年夏、コマツ社内にブルドーザーの品質向上対策を至上とするミッションを掲げたⒶ対策本部が設けられた(*8)。当時、コマツの国内シェアは6割だったが、品質面ではキャタピラー社に遠く及ばない状況であった。社内上層部からは、1年以内に、キャタピラー社と同等以上の品質を目指す過酷な目標が現場に下った。

作戦の成功の鍵を握ったQCの徹底

 Ⓐ対策にあたるすべての書類には、Ⓐの印が捺され、最優先かつ迅速に処理されていった。社員に対するQC教育は徹底して行われ、対策の具体的な目標も設定された(*9)。その時、社長の河合の司令はⒶ対策のためには「コストを無視しろ」「JIS(*10)を無視しろ」であり、後者は「JISに甘んずること無くそれより高い品質を目指せ」という強い意味が込められたものであった。試作車を使ってフル稼働で行った耐久テストから得たデータを重ね、1963 年3月、Ⓐ対策の量産試作車が完成、9月には「スーパー車」として発売された。

 コマツはわずか2年間で、アメリカ製ブルドーザーと互角に戦える品質を生み出す技術を獲得したのである。

QC部課長セミナー
D80Aスーパー車

カミンズ社と組んだ第二次Ⓐ対策

 その後、米国カミンズ社(*11)のエンジンを、コマツのブルドーザーに搭載するプロジェクトが進行、1964年7月、量産体制に入り、スーパーC車と名付けて市場に送り出される。同社との二人三脚は今も続いている。

 また、同時期、建設機械の次代の主力製品の開発に本格的に着手。油圧ショベル、ホイールローダーなどでは、複数の海外企業との技術提携を重ね、1984年にコマツ独自のラインナップ(*12)を市場導入した。

屋上にブルドーザーが鎮座するビル

1960年代に入ると、事業伸張に応じた広い本社ビル建設の構想が浮上。
1966年2月、今後の発展が見込まれていた東京都港区赤坂に、新本社となる小松ビルディングが竣工、翌月本社として業務をスタート。

屋上には、グループ総合発展のシンボルとしてD60スーパーCブルドーザーの巨大模型を設置。
この模型は、1991年まで、交通の目印としても親しまれた。

(写真:竣工したコマツビルディング)

世界を舞台に

Ⓐ対策はコマツ製品を世界品質にまで導き、海外の巨人とも対等に戦えることを証明した。
これを機に、コマツの眼差しは海外に向けられることになる。
1950年代から、国内他社に先駆けて輸出を行ってきたが、1962年からは旧ソ連や中国などと、国家規模での大型商談を実現していく。
海外、特に欧米を対象にしたⒶ対策「WA対策(*13)」のスタートであった。

海外市場での信頼性を確保

 海外での本格展開が進む中、さらなる評価を得るため、1972年のⒷ活動(*14)を皮切りに、製品ごとのプロジェクトなどを次々と実行、主要製品の海外市場における信頼性向上を揺るぎないものとしていく。

世界のKomatsuへ

 1976年からはより高いレベルでの品質保証を実現すべく「オールコマツTQC活動」を開始。1980年代初めには、油圧ショベル、ホイールローダーにおいて合弁や技術提携していた欧米の企業との関係を打ち切り、独自開発にも着手。1981年、米国で開催された「CONEXPO'81」(*15)での出品ラインナップは世界から集まった建設機械関係者の注目を集めるものとなった。

 その後、コマツは国際情勢に対応する企業として舵を取り、グローバル市場におけるリーディングカンパニーの道を進んでいくことになる。


CONEXPO'81に出品したPC1500

*1) 原因は、1947年7月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のブラウン中佐によるトラクターへのガソリン供給停止命令(ブラウン旋風)
*2) 農商務省を経て、戦前戦後の農林行政に従事。第一次吉田内閣の厚生大臣を経て小松製作所の再建にあたる
*3) 1954年〜神武景気/1958年〜岩戸景気
*4) 国内最大のD250、掘削機と積込機の機能を併せ持つドーザーショベルD50Sなど
*5) 1955年:296台→1960年2,725台
*6) キャタピラー・トラクター社
*7) 現在の三菱重工業(同社はGHQの財閥解体で戦後分離と再統合をしている)
*8) Ⓐとはトランプのオールマイティのエースにちなんでいる
*9) オーバーホールまでの実働時間をキャタピラー社と同じ5,000時間にするなど5項目
*10) 日本工業規格
*11) 1919年創業のエンジンメーカー
*12) 油圧ショベル(PCシリーズ)、ホイールローダー(WAシリーズ)
*13) 「合言葉」は1.世界一流の製品を作る 2.世界一流の販売・サービスを行う 3.世界的な良い会社にする
*14) 品質に関する「生きた情報」を集める追跡車情報収集体制の確立など
*15) 世界最大の建設機械展示会